映し出す
事実と解釈はぜんぜん別もんだよねって、最近常々感じるようになりました。
事実は、たとえば、「これはりんご」とか「りんごは赤い」とかそういうことで。
解釈は、それに対して、「おいしい」とか「りんごを見るとあの時の辛いこと思い出すから嫌いだ」とか。「好きなこのほっぺたみたいとか」
事実の解釈、意味付けはひとがしてるんだよなぁ~って。
何かに、自分の何かを投影している。
目の前の物事がスクリーンなら、そこに意味付けとか、何かのストーリーを映し出す映写機になっているのは、ひと。
だから今目の前のことに対しても、自分だけ過去の記憶とかパターンを永遠と過ごしているってこともある。
ハワイのクリーニング方法の、ホオポノポノは、目の前の出来事は、まわりの人たちの記憶が投影されて起こったもの、とも書かれていたなぁ。
苦手な人にあって、辛い思いをした時は、苦手な人を通して、過去の辛い思いを再生している。
手放しは、この映画もう観るのやーめよ、一時停止~取り出し~って感覚なんだろな。
楽しい思いは、自分の中の好きを再生している感覚。
こうやって例えて考えると、わたしは物事を理解しやすい。
外側の世界に、従属しているのでもなく、屈してもいない。覆い被さられているわけでもない。
目の前に見える世界は内側からもたらされたもの。
だから、それに気づけたら、すぐに世界の見え方は変えられるんだね。